音数が多ければ良いってもんでは無い

   今日、英文科の大学生と話をしたんだけれど、英語は3〜4歳位まではネイティヴになれるらしい。

そのあとは日本語で英語を学ぶ。

音楽に例えると3歳からピアノをやってる人はピアノネイティヴで西洋音楽的な響きが母国語のようなものなのかもしれないな。絶対音感というけれどその絶対とは西洋音楽理論的な音程をさして絶対というのは、おかしな話でもある。唯一絶対の一神教的価値観、音楽は西洋のものが正当、絶対だ、みたいな事でしょ?

確かにスピーカー等、電気で音声信号を拡声したり録音して携帯で音楽を持ち歩くことができなかった時代には、生の楽器でホールの残響を前提とした音楽においてオーケストラは圧倒的な存在だっただろうけれど。それにたくさんの楽器で演奏をまとめるにはルールが必要だったんだろう。そしてその歴史上にある西洋の音楽が文化として引き継いでいるものがあるのも当然。

日本はと言えば、義務教育において

自国の文化をないがしろにしてきた。小学校でドレミは教えるけれどヨナ抜き音階についてはほとんど触れない。

だからどうしろと言うつもりは無いけれど、それで日本と言う国に誇りを持てと言われても西洋文化に憧れるばかりなのは自然なことと思う。

で、あらためて日本の楽器を聞いてみる。

例えば、尺八は一つの音の変化が凄い。奏者は一音に対して全神経を集中する。三味線も、割と単音での旋律を演奏するものが多い。

ピアニストはコードを音の塊として捉えるのだろうか?

ドの音にはミとソとシのフラット(7th)の倍音が含まれているらしい。

ってことはドを弾くことでC7を弾いているってことだよね?

別にコード鳴らすことも、無いか、、、なんて考えたりしていた。

尺八の音を聞いてみて単音の旋律の魅力について真剣に考えた。

一つの音の価値を上げようと思うと自然と引き算的な考えになる。

たくさんの音に意識を集中してコントロールすると言うのは人間には不向きな作業なのだろう。コード楽器は弾いた後に音を変化させられる要素が少ない。

単音での演奏ではなるべく装飾的な音を取り払う。

 

私の場合、自分がそんなに器用で無い事に気がついて、言葉に喩えると、必要な言葉を選んで一語一語に気持ちを込めて意味を伝えたいと思うようになった。

まあ、歳をとって開き直った部分もあるし、自分にそれほど多くを望まなくなったんだよね。自分の出来る事を心をどれだけ心を込めてやれるか、って事に意識を払おうとそんな風に思う。


本当に伝えたいことは単純な表現で伝えられるんじゃ無いだろうか?(ほとんどの場合。可能性として残しておきたい。)

今日は、音数を減らす事で得られるメリットについて書きました。

方向性に迷う人の参考になれば幸いです。

それでは、また。

「日々、音楽」タダヒロでした。